001:雨のち晴れ サンプル

雨宿り



屋上はこの学校の中で一番居心地が良い場所だ。春の日差しもまだ少し冷たさを残す風も、閉塞感のある校内にいるよりもずっと良い。俺に関する噂話は駅から始まり、学校へ近づくほどに色を濃くしていく。
話している本人は精一杯小声なのかもしれないが、ひそめた声というのは意外に耳に届くものだ。すぐに忘れてしまえばいいような、益体も無い言葉ほど何故か耳に残る。
好奇心の入り混じった不躾な視線にもうんざりする。それでいて、視線の先を追えば慌てて目をそらす。
腫れ物扱いされるだけならまだいいのに。
知らずため息がこぼれる。こんな中に一人放り出されて一年間となっていたらと思うと寒気がする。
だが、そうはならなかった。俺はもう一人ではなくなったのだ。


 ***


 ある事件をきっかけに、俺の生活は一変した。 入学して一年も経たないうちに高校を退学になった。
前歴がついたことで、別の高校に編入するのも難しくなった。
両親はそれでも諦めずに様々な伝手をたどって探してくれていたようだけれど、正直に言うとその頃の記憶は曖昧だ。
何をどうすればいいのかわからず、外に出れば近所の人たちの視線に晒されるし、そうでなくても平日の昼間から高校生ぐらいの子供がうろうろしていれば目立つ。
自然と家に籠もりがちになり、やることと言えばせいぜいが使わなくなった教科書や参考書で勉強をするぐらいだった。
やっておかないと高校に戻ったときに困るわよと母親が言われたのもあったが、本当にそれくらいしかやることがなかった。
いくらかあった趣味も味気なく、本を読んでいても内容が入ってこない。だから勉強するか、そうでなければ眠っていたような気がする。それくらい朧げで、今思うと自分の中に燻り続けるなにかを抑えるためだったのかもしれない。
 家を離れることになったとき大きな感慨はなかった。
生まれ育った土地を一人離れ、見ず知らずの他人である保護司の元、高校生に戻るのだという。
 最初にその話を聞いたとき、なんと答えたのだったか。
今の俺にとって唯一の味方である家族の元を離れることには抵抗があったけれど、この方が良いのだと両親に言われてしまえばもう頷くしかなかった。
俺のために奔走してくれたのに、これ以上負担をかけたくはなかった。どの道、裁判所の指導とあっては動かざるを得なかっただろう。そう自分を納得させた。
 一度心を決めてしまえば、気持ちを整えるまでも早かった。
俺のことを知っている人が誰もいない土地、新しい高校でもう一度やり直せるのではないかと。
一年だけでも、あの口さがない噂話から解放されることは有り難かった。俺自身のことに留まらず家族への中傷も含まれていたから、ここに俺がいなければそういったものも少しは収まるかもしれない。
そうだといいなと思いながら、向こうへ送る荷物を準備した。





 東京というのは本当に人が多い。あまり地元から離れることがなかったので、渋谷のスクランブル交差点を見たときは驚いた。
テレビで見るのと実際に目の当たりにするのとは違う。一度にあれだけの人間が移動するさまは壮観だった。
 広く複雑な駅に苦戦しながら使い慣れない地図アプリの案内に従って、どうにか居候先へ辿り着いた。
ここで一年生活するのかと思えばそうではなく、保護司である佐倉さんが経営する喫茶店の屋根裏へ案内された。
 階下は古びてはいたがきちんと掃除がされていたが、その屋根裏は物置として放置されていたのがありありと分かる。
なんと言えばいいのか分からず、もしかしたら腹を立てるところだったのかもしれないが、
「広いですね……」
言えたのはそれくらいだった。
部屋もそうだが、佐倉さんの対応も素っ気なく突き放したものだった。でもそれは仕方のないことで、経歴だけを見たのなら関わり合いになりたくないと思われて当然で、こうして受け入れてくれるだけで有り難い話なのだ。
俺が本当になにもしていないとかそんな話、こうして前歴がついた今となっては聞くだけ無駄なんだろう。
あの時からずっとそうだ、大人は誰も俺の話を信じてはくれなかったのだから。
 仕方ない。
ここ数ヶ月の間、数え切れないほど自分に言い聞かせてきた言葉をまじないのように心の中でつぶやいて、とりあえず今夜眠るための場所を作らなければと動き出した。



 なんとか、おおまかに居住スペースを確保すると、なんとなくやり遂げた達成感があった。
 まだまだ物は多いけれど、それは追々でいいだろう。一息ついていると、佐倉さんが顔を覗かせた。
「本当に掃除してたのか」
 そう言って部屋を見渡す。
どう答えればいいのか浮かばず、黙って頷いた。
少しはマシな奴だと思ってもらえたらいいのにという下心を見透かすように、自分の部屋になるんだから当然だとそっけない。
保護司をやっているし、厄介な経歴持ちの子供を受け入れるくらいだからきっと悪い人ではないんだろうけど、どう接していけばいいのかわからない。
これから一年、真面目に過ごしていれば少しは変わるのだろうか。



 ビールケースかなにかコンテナを並べてマットレスを敷いただけのそれはベッドというにはお粗末なものだ。
 元々寝る場所にこだわりのない方だし、身体を休めるには十分な寝心地だと思う。
 うとうとしながら今日一日のことを思い出す。佐倉さんの言葉を思い出す。今日に至るまで繰り返し言われてきた。
『馬鹿なことをした』と。
結果だけでいえば本当にそうだ。高校を退学になり、行き場がなくなっても、両親が俺を責めることはなかった。
しかし、それは家の中だけのこと。一歩外に出れば、尾ひれのついた噂話に囲まれる。
自分のことよりも家族のことをあれこれ言われるのは本当に辛くて、次第に家から出ることも怖くなった。
俺はそうやって閉じこもっていれば逃げられたけど、大丈夫だと慰めてくれる母親の表情は日毎に疲労の色を濃くしていった。
女性を助けようと一歩踏み出した選択を間違っていたとは思いたくないのに、こうして俺を責めたりしない家族の優しさを目の当たりにすると気持ちが揺らいだ。
それでも結局、答えは同じところに戻る。あそこで思い留まっていたら、女性の助けを呼ぶ声を無視していたのなら自分を許せなかったと思う。
だからあれは間違った判断なんかじゃない、けれど別の自分は、それは高校を退学になってまで家族に迷惑をかけてまで選ぶべきだったのか?と問いかけてくる。
自分の中でも整理のつかない気持ちがぐるぐると渦巻いている。
 それでもあの場にもう一度立たされたのなら、同じ行動をとると思う。
そうしなかったら今以上に自分を許せなかったことだけは確信している。
自己満足かもしれなくても、今でもあれが正しい行動だったと思うことをやめられない。
けれど、それが元で大切な人たちに迷惑と苦労をかけている現実を思うと、どうすればよかったのかがわからなくて途方に暮れてしまう。


 ***


 これから通う学校だと連れていかれた先で引き合わされた校長も担任教師も、厄介者を仕方なく受け入れてやるのだという態度を隠さない。
佐倉さんの時と同じ、いや高圧的な分だけより酷い気もする。向こうからすれば傷害事件による前歴がついた生徒だから仕方がないのだろう。
とは言え、俺としてもこれからの一年間はひたすら大人しく目立たず真面目に過ごし、高校は無事に卒業したい気持ちはあるのでここは大人しく従っておくべきだろう。
それに、地元の時のように遠巻きにされたり妙な目で見られたり下世話な噂を流されたりといった面倒事はないのだから、教師から厳しい目を向けられようとも当たり障りのない学生生活を送れるのならそれ以上は求めない。それで十分、そう考えていた。


 しかしながら、俺の見通しが甘かった。
それとも巡り合わせが悪かったんだろうか、淡い希望は脆く崩れ去った。
思い返せば、学校最寄りの駅に降りた時から不穏な気配はあった。ただ、その後に起きた非現実的な出来事のせいですっかり意識から飛んでいたのだ。
不可思議な世界から無事に生還、大遅刻で学校に到着し、職員室までの道すがら聞こえてきたものだけでもとんでもないものだった。
いっそ笑ってしまいたくなるほど尾ひれがつきまくったそれは一体誰なんだよと肩を落としたくなった。飲酒に喫煙、万引きなんて、傷害関係ないし、鞄にはナイフを隠し持っていてなんてない。教科書もまだ貰っていないからノートとペンケースだけだし、キレたらなにをするかわからないってところだけは傷害っぽいかな……おおよそ、高校生が考えうるステロタイプな犯罪者・前科者イメージが詰まった転校生像。
いや、それは誰のこと?
 職員室での担任からの小言が短かったのだけがせめてもの救いだった。




 今日は朝からいろいろありすぎて疲れたし、帰ったら帰ったで佐倉さんからは間違いなく今日の遅刻の理由を問いただされるだろう。
 想像しただけで憂鬱だ。
遅刻は事実だから叱られるのは仕方ないのだけど、教師に厳しく言われるよりもあの人に突き放した言い方をされるほう何倍も堪える。まだ東京に来てから何日も経っていないのに。
学校でも居候先で気が休まらないなあ、ため息が出そうだ。


 足取り重く教室を出たところで、景色が一瞬だけ朝に迷い込んだ城に見えて、そこで大遅刻の原因となった出来事を思い出す。
非現実的な出来事なのに、手には生々しい感触があって夢じゃないという実感がある。
だからってどうしようもない、疲れていろいろなことが面倒になってきて、さっさと帰りたかった。帰って一人になりたいのに、朝の金髪の坂本に屋上に呼び出された。
担任曰く問題児らしいが、城での一件から受けた印象は悪くなかったので、行ってみることにした。



「見かけたら声かけっからシカトすんなよ?」
 屋上であの城が夢ではなかったと確認しあい、よろしくされてしまった。
上京してからこっち、こんな親しげに対応されたことがなく、まして親しげに名前を呼ばれることなどなくて不意をつかれた。
改めて目の前の坂本竜司という人間について考える。
 思えば、坂本は見た目と第一声はおっかない印象があったものの、転校生とわかると――転校生の噂は知っていただろうに――学校まで先導してくれたり、怪しげな城の中ではあろうことか俺を庇い自分の身を顧みず「逃げろ」とまで言ってくれた。
ろくに会話もしていない、互いに名前すら知らないにも関わらず、だ。
 そして、今も。面と向かって前歴のことに触れて、認めても態度が全く変わらない。
前歴がどうこうよりも、あんな生きるか死ぬかの極限の経験を共にした後だから、今更なのかもしれない。
俺も坂本が問題児なのだと言われたところで、だからどうしたんだ?と思ったし。
問題児だろうとなんだろうと、坂本竜司という人間が俺の命の恩人なのは変わらない。


「じゃあな」
立ち去る背中を見送る。
「いいから逃げろ!」と言った竜司。
見ず知らずの自分を助けようと必死になってくれた姿に、あの時の自分が重なって見えた。
だからあんな妙なことになったのかもしれない。
理不尽に振るわれる暴力への怒りと同じくらい、なにも出来ない自分が許せなかった。
あの〈ペルソナ〉というものはそういう感情の発露だったのかもしれない。
なにもかもわからないことだらけの状況の中、ただ一つだけは俺にもわかった。今度は守ることが出来た、ということを。
あの時も今回も、ただ困っている人を助けたかった、それだけのこと。前回はなにもかも滅茶苦茶になってしまったけれど、今度は成し遂げられた。
もし今回も駄目だったら、どうなっていたことか、嫌な想像しか浮かばない。
竜司に助けられ、助けたことで、俺の心もまた救われた。
報われたと思った。
安心したら、目の奥が熱くなってきて慌てて目を閉じた。
嬉しさで泣きたくなることがあるなんて思わなかった。


 ***


 その時のことはきっと一生忘れない。
東京に出てきて初めて、親しげに名前を呼ばれた。自分の名前に思い入れなんてなかったのに、誰かに呼びかけられるというのはこんなにも心地の良いものだったのかと気づいた。
当たり前にありすぎて気づきもしなかったこと、名前を呼ばれ、他愛のない言葉を交わす。そういったごく普通のことが出来ることが嬉しい。
「竜司」
「モルガナ」
「杏」
 誰かを呼ぶことが出来るのも、返事が返ってくることも、俺が取り戻したかった日常そのものだ。


***



 初日がああだったからなのか、それ以降も平穏無事な学校生活とは程遠く、鴨志田を改心させなければ俺だけではなく竜司や三島までも退学という事態にまで追い詰められてしまった。
 〈ペルソナ〉という不思議な力を使ってシャドウという化け物と戦う、漫画かゲームみたいな状況でもとにかく必死だった。
とりあえずの取りまとめ役として探索や戦闘で指示出しをしている手前、俺も出来る限り力を尽くしたい。
戦闘はまだいい。モナがナビをしてくれるし、スカルやパンサーのペルソナは強力で頼もしいので、俺はそれを補う形で今の所はどうにかなっているからだ。


 現実でも学校生活の合間に必要な武器防具や道具類の調達などもしなければならない。
佐倉さんはあまりうるさくないほうだ(と思う)けど、あまり帰宅が遅いと不審がられるので避けたい。
異世界のことは右も左もわからない俺としては、モルガナの「これは向こうで役に立つ」「あれは使える」という言葉に従って行ったり来たりするしかない。
武見先生の薬のように効果を目の当たりにしたとなればなおさらだ。ただ、なにをするにも先立つ物が必要なのが世知辛い。バイトをしても稼げる金額はたかが知れている。


「あっ、おい、そこじゃねえって」
 モルガナを屋根裏に住まわせ普段の面倒を見る代わりに、潜入道具についてレクチャーしてくれることになった。
便利な道具なので作り方は覚えたい。
覚えたいのだけど。
俺が慣れない細かな作業に四苦八苦してるというのに、横から無遠慮にああだこうだと言われる。
教わってる立場でいうのもなんだけどモルガナは小言が多い。
どうにかこうにか苦心に苦心を重ねて、やっとキーピックを完成させる。
我ながらうまく出来たんじゃないだろうか。ライトの下でためつすがめつ眺める。
視界の端に試行錯誤の成れの果てが山になっているのも、これならあと数個は作れたと小言も見えない聞こえない気にしない。
しかし、慣れたらもっと作れるようになるって言われても……。


 パレスを探索中、鍵のかかった宝箱を発見、ついにあのキーピックを使う時が来た。
鍵穴を探っていると肩にずしっと重みがかかる。
「どうだ? 開きそうか?」
 異世界のモナは現実のモナよりもずっと重たい。
現実と同じ調子で乗っかって来ないで欲しい。重さに前屈みになりながら、キーピックを動かしていくと手応えがあった。そのまま力をこめると内部の機構が動きカチリと音がした。
蓋が開く。
武器や防具になりそうな装備品やアイテム類、換金できそうな宝石と手間に見合った成果があった。
これはたしかに便利だし、なるほど頑張ってみてもいいかもしれない。
頭に乗っかっているモナ(重い)は俺を踏み台にしてひらりと飛びのいた。そのせいで宝箱に顔を突っ込みそうになるのを堪える。
ともあれ、材料は多めに揃えておこう。
 

パレスの探索はとにかく気が張る。
 どこかに仕掛けが隠されてはいないか、些細な違和感を見落とさないように注意深く辺りを見回す。
並行して、巡回しているシャドウの気配にも意識を向けなければならない。
曲がり角で壁に張りついたり、家具の陰に身を潜めたり。
この世界ではアクション映画さながらの身のこなしを意識せずに出来てしまうので、気をそらしさえしなければどうにでもなってしまう。
そうしたスリルを楽しみ、心が躍っている自分がいるのを否定できない。
戦闘だってそうだ、斬って斬られて、攻撃されれば痛みを感じるし、ダメージが蓄積されれば苦しい。見たことのない敵、強敵は恐ろしくても、〈ペルソナ〉を召喚するたび言い知れぬ解放感があって、気分が高揚する。
日頃の抑えている鬱憤を晴らしているのは否定しない。
「お前、なんか普段とテンション違うよな」
 とスカルに言われたこともある。俺も知ってる。そういう彼自身も普段よりも見た目相応というか、ドクロの仮面に鉄パイプを持っていると……ここにバイクがあれば完璧だと思う。言動もより荒っぽい。まさに族。パンサーだってそう、これぞ怪盗服はこれぞ女怪盗と言わんばかりだし、武器が鞭なせいか心なしか言動が女王様を意識している……気がする。鞭さばきはなかなかのもので、あれがこちらに振るわれるような状況は御免被りたい。考えただけで背筋に冷たいものが走る。


 奥へ奥へ、進むほどに敵シャドウも手強くなっていく。
こちらも経験を積んで強くなっていっているはずなのに、一撃が重い。
まともに食らうと体力がごっそりと削られてしまう。
酷い時には立っているのが俺とスカルだけということすらある。
強敵の前では打たれ弱いモナとパンサーのことを庇う余裕がない。
ただし、それだけの相手を倒せさえすれば見返りも大きかった。消耗の激しさ、見返りどちらを優先すべきか、じりじりと進むしかなかった。
 やっと半分は過ぎただろうかというところで、この日は探索を打ち切った。
 もっとしっかりした防具や薬が必要だと強く感じる。
防具は貯まった資金でどうにか揃えられそうだが、薬は消耗品でなおかつ高価だ。
備えあれば憂いなし、無い袖は振れないけれど出来る範囲で備えていかなければ。



 探索を終え現実世界に戻る。全身がずっしりと重たい疲労感に包まれた。
今日は少し調子に乗って力を使いすぎてしまったかもしれない。早く帰って寝たい。
皆、気持ちは同じなのか「おつかれ」と言葉少なく解散した。
 鞄の中のモルガナの重みすら辛い。足取り重く帰路につく。
 電車に揺られてぼんやりしていると、うっかりそのまま寝落ちしてしまいそうで、手摺を握りしめる。
「はぁ?疲れたぜ……それに腹減ったな」
 人の気も知らないで猫は気楽にそんなことを言っている。
 駅徒歩数分のルブランの立地は最高だなと思いながら、屋根裏への階段をよろよろと登り切る。ベッドに倒れこみたいのを堪えながら、モルガナの食事を準備した。
「また猫缶かよ、寿司食いてえ……」
 ぼやきながらもしっかりと食べているのを見ながら着替えると、そのままベッドに横になった。
お世辞にも寝心地のいいものではないそれも今の俺には高級なマットレスと同等の価値があった。
「おい、飯食わねーのか」
 モルガナの声が遠い。いらないと答えた気もする。とにかく疲れていて食欲がなかったし、そにかく眠りたかった。


 昨日早く寝たことで、疲れはかなりとれたはずなのにどうにも本調子とはいえない。
食事を用意してくれる佐倉さんの心遣いはありがたいけれど、今は胃が受け付けそうにもない。
「オマエ昨日もなんも食ってねーだろ。食った方が元気でるぞ」
 こちらに来て食事の楽しさを知ったモルガナからするとおかしな光景に見えるのかもしれない。
食べ物を見ただけで胸がいっぱいになる感覚は伝えづらい。
でも、こんな調子では今日はパレスは無理かもしれない。それはちょっとまずいかもしれない。仕方なく途中のコンビニでゼリー飲料を買い、電車を待っている間に飲んだ。
現金なもので少し身体が軽くなった気がする。


 昼休みのチャイムが鳴ったところで、机の中から顔だけ出したモルガナが睨んでくる。
「おい、昼飯はちゃんと食えよ。そんでワガハイにも食わせろ」
「わかったよ」
 さすがに少し空腹感を覚えているので、怒られずとも食事を摂る気はあった。
モルガナと一緒に行動するようになって数日、うるさいなあと思うこともあるけど、こうやって小言を言われるのは悪くない気がしてきた。構って欲しい子供みたいだなあと自分に呆れる。
 元々は年相応の量を食べて飲んで食事を楽しんでいたのに、この頃はそうでもなくなくて、なにを食べても心が弾まない、きっとこれは美味しいんだろうなあと思いながら黙々と片付ける。そんな状態が続いていた。
 実家に居た頃、気遣われるのがしんどくて家族で囲む食卓を避けるようになった。自分で選んだくせに一人で摂る食事は味気なかったし、そんなに動かないから食欲はわかず、残せば心配させるから義務感で平らげていた。
食事はつまらないものという日々が続いてしまい、いつしか食べることへの執着が薄れていた。
 それでも、最近は少し変われた気がしていた。転校初日に佐倉さんが差し出してくれたカレー、竜司と食べた牛丼、コンビニの弁当やカップ麺だってモルガナという連れがいると少しマシな味に感じられた。誰かと摂る食事は気が紛れて悪くないなと思えてくる。
「ワガハイ、焼きそばパンってやつが食いたい」
「はいはい」
 適当に返して購買に向かった。
 焼きそばパンは無理だろうなあ……と思いながら。俺はツナサンドが食べたい。



 廊下を歩くだけで耳に入ってくる噂話にも慣れた。いい気分はしないけど、聞いた端から忘れるくらいの気持ちでいないと、この先やっていけないだろうし。一年は長い。まあ、鴨志田をどうにかしないと退学になるわけだが、上手くいくと信じてやるしかないのだ。
こんな針のむしろのような状態でも、高校に通えているというのは恵まれたことだと思っている。こんな半端な年齢で高校に行けなくなって、先も見えないまま家で息を潜めて過ごすよりはずっといい。
向こうは制服で、俺は普段着。そこには大きな溝があったから。今またこうして制服に袖を通して、同年代の人間に囲まれて、毎日授業を受けて、事件の前と同じように高校生に戻れている。親には感謝してもしきれない。
 万一、退学にでもなろうものなら合わせる顔がない。
 怒るだけで済めばいいけど。一度ならず二度までも、となるとどうだろう。
今はさしずめ崖っぷちの一歩手前といったところか。あの時も今も、どうしても目の前で起きていることをやり過ごすことは出来なかった。黙って見ていられない。
痛い目を見た癖に、懲りた気がしたのに、また同じように崖ギリギリを綱渡りのように歩いている状態。不思議と後悔はない。
 もう、なるようになれ、ダメだったらその時はその時でいいんじゃないだろうか。
自分に嘘をつくくらいなら、やりたいことをやってしまいたい。





 疲れがとれないから、パレスは見送ったのに、俺は何故走り込みをしているのだろう……。
しんどい。なんだこれは。
黙々と走り込みをしている竜司を横目に、言われた通りに走る。
運動は苦手なのに、竜司に真っ直ぐな目で「やろうぜ」と言われて、運動なんて欠片もしたくありませんなんて返す勇気はまだない。
バレないようにペースを落としてみた。黙々と自分のメニューをこなしているようで気づかれていないようだ。これが元陸上部エースの風格?
こういう基礎的なトレーニングの積み重ねが大事なんだろう。多分。
「おいこら、サボんな」
足を止めたらさすがにバレた。
「そんなんじゃ足速くなれねーぞ!」
 そんなにすぐに速くなれたら苦労しない。
 運動会が嫌いだったインドア派男子としては足が速くなることへの憧れはある。大いにある。あるけど、慣れない運動にそろそろ俺の足は限界だ……。
「やるぞ」と真面目な顔で言われてメソメソもしてられない。よたよたと走り始めた。
 これがパレスなら颯爽と駆け抜けられるのに、現実って甘くない……。


「帰り転ぶんじゃねーぞ」
 もう何か言う気力もないから黙って頷いた。
竜司と俺は別メニューで、俺よりずっと負荷の高そうなトレーニングをして、疲弊しているのは同じでも、まだ足取りはしっかりしている。
体力差を痛感する。もう少し頑張るべきかな。俺。


 ***


 予告状、カモシダとの対決、パレスの崩壊。
 果たして、俺たちはやり遂げることが出来たのだろうか。
 あれ以来、鴨志田を校内で見かけることはなくなった。モルガナはうまくいったはずだというけれど、本当に廃人化はしないのだろうか。
やると決めた時、例え廃人化してしまったとしても構わないと覚悟したけれど、カモシダの最後の言葉を聞いた今は、改心が成功して罪を認め償って欲しいと思っている。
 今は待つしかない。
この待つしかないという状況がどうにも落ち着かない。
 学生の本分は勉強。
勉強は別に好きじゃないけど、成績だけは親元に届けられるというからやらないわけにはいかない。
 こうして高校に来られるのは両親が腐心してくれたおかげなのだし、保護観察中の身、以前より成績をあげていかなければ申し訳が立たない。
という気持ちの元、大人しく勉学に励むことにした。成績は落とさないほうがなにかと都合も良さそうだ。
 もし成績が前よりも落ちたら、都会の誘惑に負けたと思われたりするのかな。
たしかに誘惑が多いというけれど、毎日通る渋谷の駅前だけでも人も物もうんざりするほど多くて、情報量が半端ない。
興味はなくもないが、ただでさえ朝の通勤通学ラッシュでうんざりしているのに、あの中に飛び込んで行くのは考えただけで疲れてしまう。
 それに転校初日の大遅刻の件もあり、佐倉さんの目は厳しい。寄り道したりせず帰ったほうが良さそうだ。
 しかしながら、夜はルブランで勉強するにしても、まだ店が営業中の夕方はどうしよう。お客さんのいる時間にごそごろしてるといい顔されないかも。作業机は工具が置いてあって狭い。出来なくはない。
 学校に残って勉強となると、教室または図書室か。教室は残っている生徒も多く、ざわついた雰囲気で集中できそうもない。
図書室なら目的が同じ生徒が集まっているだろうから、机が空いていればあそこで、空いていないようなら帰ろう。
 図書室に入り、自習用の机に向かう。隣の席ときっちり仕切りがされていて、集中出来そうな雰囲気で悪くない。
実のところ以前いた高校よりも秀尽学園の方が全体のレベルが高い。今のところ付いていけないほどではないがサボっているとまずそうだ。
「なあ、本当にここでやるのか?」
 鞄の隙間からモルガナが不安そうな顔で見てくる。
 首をかしげる。何を心配されているのかよくわからない。
 ノートを広げ、これまでの復習を始める。
――なんでここにいるんだよ。勘弁してくれよ。
――前科者が今更勉強とかして真面目ぶってもなあ。
――うわ、最悪。なんでここに居るの……。
 ああ、モルガナが言っていたのはこれか。
転校初日から毎日、教室で校内でうんざりするほど聞かされ続けてきた噂話、それを元にした小声の嘲笑や罵声、慣れてきたようで慣れないようなそれは教室や廊下であればその場から立ち去ればよかった。
今は机に向かっていて逃げ場もなく聞かされ続けるのは度胸が要りそうだ。
意識しないようにノートの上の数式を見つめる。再びペンを動かし、問題を解くことに集中しようとする。
失敗したかも。
一度、意識がそちらへ行くと切り換えが難しかった。
 外だとこんな下手は打たないのに。図書室の下調べをするべきだったのに、油断していた。静かな場所なら大っぴらには話せないし、目の前の課題に集中していれば大丈夫だろうとタカをくくっていた。
静かな室内で潜めた声が否応無しに耳に届く。
聞きたくないのに耳が拾ってしまうのだ。
「お前、よくこんなところで勉強出来るな」
 モルガナもうんざりした様子だ。 
――さっさと出てってくれないかな。
――勉強したって前科は消えないのに。
――退学になるんでしょ? なんでまだここにいんの。
 空欄に入れる数字は。導き出される答えは。何をすればいいのかわかっているのに、視線の先の数字も文字もうまく頭の中で繋がらない。
 何故ここまで言われなければならないのか。どうして?
 わかりきってる。
彼らにとって俺が異物だから。
だから排除したくなるんだ。
 転校してきた初日からずっと晒され続けていた状況も、ペルソナに目覚めたことがきっかけでめまぐるしい日々を送るうちに気がそれていった。
そして、竜司、モルガナ、杏とごく少数ではあったけれど自分のことを偏見なく受け入れてくれる仲間と過ごす時間も増えた。そもそも校内に留まるということが少なかった。
少し状況が好転したからといって気を抜きすぎだった。
元より学校は俺の居場所とはいえない。一日の大半をここで過ごさなければならないにも関わらず。それを忘れていた。
 帰ろう。これなら作業机で勉強したほうがよほど捗りそうだ。
 心を強く持ち続けるのは難しい。ずっともっと強くなりたい。


***


 眠るのは好きだ。
煩わしいなにもかもを忘れて時間を潰せるから。失くしてしまったもののことを考えたり、先を見通せない不安な気持ちを忘れられる。
 夢を見る。何も考えず眠りたいときほど、うまくいかない。
改心が失敗し、学校を退学になる。せっかく出会えた竜司やモルガナ、杏とも離れ離れになり、両親も失望したことだろう。
皆、背を向けて何処かへ行ってしまう。待ってくれと呼びかけたいのに声が出ない。手を伸ばしたくても身体が動かない。――今度こそ独りだ。どこにも居場所なんてない。
 はっと目が醒める。
やっと見慣れてきた天井がまず視界に入る。続いて吊るされた裸電球が一つ。
窓の外はまだ薄ぼんやりとしている。遠くの車の走行音以外静かだ。
 息を吐き身体を起こし、モルガナを探す。見回すと足元で丸くなっている真っ黒なかたまりが見えた。呼吸に合わせかすかに上下するその姿に肩の力が抜けた。
 まだ起きるには早い時間だ。もう一度眠った方がいいのはわかっていても横になる気にはなれなかった。
眠るのは好きだけど、今は目を閉じればまたあの夢を見る気がして戻る気になれず、膝を抱えてただモルガナを眺めていた。
非現実的な世界で出会いこちらにやってきた猫じゃない猫。
艶やかな毛並みは触れると指に心地よく、温かな体温も感じられるはずだ。
触れればきっと安心できる。
けれど、気持ち良さそうに眠っている姿を見ていると起こしてしまうのが可哀想に思えて動けない。
 触れられなくても居てくれるだけで良かった。
今は、独りじゃない。


 今日はどうしようか。帰って勉強か、診療所に顔を出してあやしげな薬の治験をするか……あの味を思い出すと今でも背筋がぞわぞわする。
 なんとも形容しがたい奇妙な味、その後の記憶が飛んでいる。覚醒後も身体が重だるくてなかなか起き上がれなかったことだけは覚えている。もう一度挑戦するにはまだちょっと度胸が足りない気がする。
 スマホを見ると、竜司からトレーニングの誘いが来ていた。
昨日の今日で、好きでもない勉強を窮屈な思いをしてやるか、ひたすら走ったり身体を動かすか。
もやもやするか筋肉痛か、二つに一つ。
……身体を動かせば少しは気も紛れるかもしれないし、何より朝から人恋しい気分が残ったままだったから、竜司といれば満たされるかもしれない。
 とにかく一息つきたかった。


 走る。とにかく走った。
 運動なんて体育の時間だけで十分だろと思っていたけど、考えを改める時が来たみたいだ。心臓はバクバク足はガクガク、汗でシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。
なのに、身体を動かす前よりも不思議と気分がスッキリしている。
 数式や英単語の合間に物思いにふけってしまうより、ただゴール地点に向けて一心に走るのを繰り返していると、次第にそれしか考えられなくなる。
一点に集中して他を見ない。余計なものが挟まる余裕はない。
 ただ闇雲に身体を動かすというよりも、俺のような運動し慣れていない人間向けにメニューを組み立ててリードしてくれた存在がいてこそかもしれない。
シンプルに身体を鍛えるという目標だけを見て、身体を動かすことに楽しささえ覚え始めている。
鴨志田を改心させるという目標の元に駆け抜けた数日間を思い出させた。
 それにしても、さすが元エースというか。竜司は基礎練習も疎かにせず黙々と打ち込んでいる。
こういうところで差がつくんだろうか。見た目や体育会系というイメージに引きずられていたのかもしれない。
勉強は苦手らしいのに、身体を動かすこととなると違った。どう動けば効率的に鍛えられるか、きたえるだけじゃなく休むことも含めて、意外なほど理論立てて考えている。
それだけ好きだったんだろう。
竜司の半分程度の内容でも続けているうちになんとなく以前より動けている気がしてきた。慣れるのって大事。
まだまだ気分程度だけど、成果らしきものが感じられて気分が上がってきた。
 ただ、竜司と元陸上部員の確執が気がかりだった。鴨志田が元凶であり、竜司が手痛いしっぺ返しを食らったとしても、陸上部が廃部になったのは動かしがたい事実だ。
彼らには彼らの事情があるのも、竜司に怒りを覚えるのは理解は出来るけれど、話さえ聞いてもらえないのは辛くないだろうか。


 その夜は、身体を目一杯動かした疲れからか、夢も見ずにぐっすりと眠れた。
きちんと睡眠がとれると頭もスッキリ、気持ちにも余裕が持てた。
 これまであまり進んでやってこなかった事の中に新しい発見があるものなんだな。
 身体を鍛えられるし、そういう疲れでよく眠れるというのはなんというか健全な感じがする。
 竜司に倣ってトレーニングをするのも悪くないかもしれない。
 パレスはもう無く、通いつめていたあの時のように疲れ果てて眠る以外したくない、なんて事態はそうそうないだろう。
そうなれば、こうやって健全な方法で疲れていれば、身体も鍛えられるしよく眠れる。一石二鳥かも。
 眠りは俺にとって安らぎであり癒しだから、変な夢なんて見たくない。


 味をしめた俺は、今日も竜司を誘ってトレーニングに励んだ。
これまであまり乗り気じゃないところを見せていたせいか、「お前、熱でもあるのか?」と心配された。体調はむしろ好調だ。……若干筋肉痛気味なこと以外は。
 やる気を見せたからか、今日は早めに切り上げて、陸上部時代に通っていたという荻窪のラーメン屋に連れて行ってくれた。
こんなにラーメンが美味しいと思えたのは久しぶりだ。
あっさりしたスープのおかげで、運動後でもするすると食べられた。部活後に来ていたというのも納得。
 竜司は自分を終わっているなんて言うけど、全然そんなことはないのだからもっと自信を持てばいいのに。
出会った頃からずっと他人のことを心配しては怒る姿ばかり見ている。自身も酷い目に遭っているのに。
本当に終わってる人間ならそんなことしないだろうに。
 お互い酷い目に遭ってきた。時計の針は巻き戻せい。前に進むしかない中で、出会えたのが竜司で良かった。
 俺といて楽しい、なんて面と向かって言われてしまって驚いて言葉が出なかった。
直球な言葉は疑問を挟む余地もなく心に染み込んでくる。
俺も、今すごく楽しい。



 あたたかくて心地いい。
「おい」
 竜司の声がする。
「次で降りんぞ」
 その言葉で、パッと目を開く。数度まばたきをして、やっと意識がはっきりしてきた。
 いつの間に寝てしまったんだろう。
「よく寝てたな」
 やけに近いところから聞こえて、そちらを見たら半笑いの竜司の顔。
「うわっ」
 変な声が出た。慌てて右に傾いていた身体を起こす。
 油断した。恥ずかしい。
ほどよい疲労感と、いい具合に満たされた腹、電車の揺れ。眠くなるのも仕方ない。
けど、まったく意識していなかった。
いつ眠ってしまったのか、全然思い出せない。ラーメンってあんなに美味しかったかな、とそこまで考えてたのはうっすらと覚えている。
そこから声をかけられるまでの記憶がない。
何かしっかりとしたものに寄りかかっていた気がする。温かくて安心するなにか。
 恥ずかしさに俯くと、膝に載せた鞄の中からモルガナが見ていた。きっと「よくこんなところで寝れるな、オマエ」とでも言いたいんだろう。
 そうこうしているうちに、目的の駅へ到着のアナウンスが流れた。
 肩をぽんと叩かれる。
「降りんぞ」
 竜司は気にした様子もなく立ち上がった。気にしているのは俺だけか。
 続いて立ち上がり、鞄を持ち直した。
「オマエ、気を抜きすぎだぞ」
 モルガナの小言に、俺もそう思うと返した。